Blog地球防衛軍

地震や自然災害を中心に皆様の身を守る術や、地震に対する考察などを、、書いていたんですが、最近好き勝手書いてる。すいません

【小笠原沖地震】南海トラフ、首都直下型地震に次ぐ第3の地震

地球防衛軍だいすけです。

さて、古地震学という分野があり、昔の地震の事を調べる学問なんですが、その中でもデータが不足しており、未だに論争が起こっている慶長大地震について調べると、

南海トラフ地震首都直下型地震

以外の第3の地震が見えてきました。

 

 

18年間での7回の地震、慶長大地震(慶長の大地震)

 

慶長大地震とはわずか18年の間に起こった7つの地震の総称で

 

1596年9月1日

慶長伊予地震 - 伊予国(現在の愛媛県)M7.0、中央構造線断層帯の四国西部部分が震源断層と推定されています。

 

1596年9月4日
慶長豊後地震 - M7.0-7.8、死者700人以上。中央構造線断層帯の西にある別府湾-日出生断層帯東部が震源断層と推定されています。

 

1596年9月5日
慶長伏見地震 - 内陸部地震M7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、六甲-淡路島断層帯中央構造線断層帯の四国東部部分などが震源断層と推定されています。

 

 

ここまでは以前のブログでも書いた、中央構造線断層帯で起こった地震であり、5日間の間に3回のM7クラスの地震が起こっています。

そして少し期間が空いて、まだ続きます。

 

1605年2月3日
慶長地震 - 震源不明、震度不明、関東以西の太平洋沿岸をおそった津波。被害記録のほとんどは津波によるもので、地震動に関する記録は乏しい。現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者数、1万人から2万人

 

1611年9月27日
会津地震 - 会津藩をおそった地震。M6.9。寺社損壊、死者約3,700人。

 

1611年12月2日
慶長三陸地震 - 奥羽・蝦夷地太平洋沿岸をおそった津波。被害記録のほとんどは津波によるもので、仙台藩で人の死1,783、南部藩津軽藩で人馬の死3000余。従来震源三陸沖の日本海溝沿い考えられていたが、津波の痕跡の範囲などからこの定説に疑義があるとされ、南千島沖・北海道太平洋沖の震源と連動した大地震津波だったとする説もあります。地震被害の記録はほとんど無いです。

 

1614年11月26日
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に発生したとされる地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、結局震源が不明になってしまいました。

 

 

慶長地震の新説に信憑性

 

慶長地震は前述した通り、地震自体の被害報告は少なく津波で1万人から2万人亡くなっています。

現在の耐震性ならあり得るんです。この事例。

当時は木造の家屋ばかりで、強い地震起これば家屋は倒れて当然だった。

なのに地震の報告がないということは、揺れは大したことないのに津波だけとても大きなものが来た。

ということですよね。

 

そして着目すべきは、その地域、房総半島の死者がとても多いです。

「大山のごとし浪が来た」と記録にあり、現在の千葉県勝浦市、千葉県鴨川市では大きな津波被害があったと推測されます。

 

記録に残っている津波では千葉県の津波東日本大震災での7.4mの津波が1番高かったとされています。

 

しかし、東京大学地震研究所から、「慶長地震津波は房総半島に18mの津波があったのではないか。」という説が出ていて、信憑性も高いことがわかりました。

 

 

 

きっかけは2015年、小笠原沖地震

 

2015年に5月に起きた最大震度5強の地震

M8.1 震源の深さ680.7km

この地震は、地震研究者達を震撼させました。

 

今までの理論上この深さでこの強さの地震が起こる事はあり得なかったのです。

 

起きたのだから調べるしかないと調べる事になったこの地震、慶長地震と紐付けたのは東京大学地震研究所の方々でした。

 

小笠原沖が慶長地震震源なのではないかと思い。実感しました。

 

同じ震源で非常に強い地震が起こったと想定してCGで津波を起こします。

すると慶長地震の記録と非常に近い形になり、房総半島に強い津波が起きました。

 

鴨川市に直接取材

 

なるほど、この仮説は信憑性が出てきた。と、現地、鴨川市に行って取材をします。

 

訪ねたのが鴨川市にある西徳寺。

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海沿いながら高台の上にあり。

海岸沿いの町を見下ろすとてものどかなところでした。

 

西徳寺のその地震の時を書いた古い書物を見せて頂き、被害が大きかった事が伺えます。

「洪浪により寺堂、民屋、漂流、その際、宝物、古記物、古文書など、ことごとく流され」

 

と書いてあります。

当時、津波という言葉がなく、洪浪(こうは)と表現されておりますが。お寺も集落も流されてしまい。宝物(宝物というのは仏像のことです。)も歴史的なことを書いてるものも全て流された。と。

 

このお寺は高台にあり。海抜15mはあります。

東日本大地震でも千葉県は7mでしたがそれの倍以上の津波が来たことになります。

 

海抜から仏像まで、正確に測ると17mでした。仏像を丸ごと持って行ってしまうということは、少なくとも更に1m以上はあったであろうと考え18mの津波と推測しました。

 

現在にも通じること

 

どこにいても、地震のない地域とは日本にはないのかもしれません。

 

そして起こることは止めることはできません。

 

日々続く地震研究や、防災研究、この時代に比べ物にならないほど発展しました。

 

ただ後は人々の心がけです。

 

防災について書いたブログもあります。よろしければ読んでみてください

【一人ひとりが命を守る】地震発生時の居場所別の被災方法 - Blog地球防衛軍

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

皆様のお役に立てればと思います。